2026-10-07
この本の冒頭部分では、「移動」は単なる交通や旅行の問題ではなく、社会階級・格差・自由・生活機会と深く結びついている、という問題提起がなされています。
私たちの日常生活は、通勤・通学、買い物、通院、旅行、転居など、さまざまな移動によって成り立っています。近代以降、鉄道や自動車、飛行機などの交通手段は大きく発達し、人間は以前より速く、遠くへ移動できるようになりました。しかし、交通インフラの縮小や経済状況、身体的条件、居住地域などによって、誰もが同じように移動できるわけではありません。
著者が注目するのは、こうした「移動できる人」と「移動できない人」の差です。現代社会では、世界各地を旅行したり、転職や移住を繰り返したりできる人がいる一方、日々の買い物や通院さえ困難な人もいます。それにもかかわらず、私たちは無意識のうちに、よく移動できる人を成功者・勝ち組として評価し、移動しない/できない人を低く見る傾向があるのではないかと著者は問いかけます。
この格差は災害時に特に鮮明になります。2005年のハリケーン・カトリーナでは、自動車や通信手段、人間関係などの資源を持つ中流階級以上の人々は比較的早く避難できた一方、貧困層、高齢者など多くの人々が取り残されました。2024年の能登半島地震でも、被災地域から別の地域へ移る「二次避難」が推奨されましたが、障害のある人などにとっては、生活環境を変えること自体が大きな負担となり、「移動した方がよい」と単純には言えない状況がありました。ここから著者は、他人が自由に移動できることを当然視してはいけないと指摘します。
日常生活でも同じ問題があります。特に地方では自動車が生活必需品になっていますが、自動車価格は長期的に大きく上昇しています。安全運転支援などの機能が充実する一方、高所得者は新しく安全な車を利用できても、経済的余裕のない人は古く、安全性能の低い車を使わざるを得ない可能性があります。つまり、移動手段そのものにも階級差が生まれるということです。
高齢者の免許返納も単純な問題ではありません。事故防止という観点から返納が求められる一方、地方では車を失えば買い物や趣味などの日常生活そのものが成り立たなくなる場合があります。自動車による移動がその人の自由やアイデンティティ、生きがいと結びついていることもあり、免許返納が深刻な心理的負担になることさえあります。したがって、「危険だから返納すればよい」という個人レベルの解決だけでは不十分です。
自動運転などの新技術も解決策として期待されていますが、著者は技術的楽観論だけでは問題は解決しないと考えます。新しい技術も購入・維持できる人とできない人に分かれるため、むしろ新しい格差を生む可能性があります。
こうした議論から著者は、**「移動の機会や可能性は人々に平等に与えられていない」**と結論づけます。そしてその違いは単に移動の便利さにとどまらず、仕事、教育、生活、社会的地位の獲得などにも影響し、新たな階級・階層間の分断を生み出しています。
ここでクリストファー・ラッシュの議論が紹介されます。現代社会では成功と移動が強く結びつき、機会を求めて場所を移動できる人ほど社会的に有利になります。逆に故郷など一つの場所にとどまる人は、上昇移動の機会から遠ざかる可能性があります。つまり、現代のエリートとは単に資産や学歴を持つ人ではなく、「自由に移動できる人」でもあるというわけです。
都市そのものもこの問題と無関係ではありません。ジェントリフィケーションなどを通じて、経済的・社会的に力のある人々は都市を自分たちに適した空間へと作り変え、そこへ移住することができます。交通や都市計画も含めて考えると、移動とは個人の選択だけではなく、都市構造、経済、政治、階級関係によって形成される社会現象なのです。
この問題を考えるために、本書では**「移動格差(モビリティ・ギャップ)」**という概念を中心に据えます。これは、人々の移動をめぐる機会や結果の格差・不平等、そしてそこから生じる社会的排除や階層化を指します。
移動については「本人が移動するかどうか決めればよい」「移動できないのは自己責任ではないか」という考え方もあります。実際、著者の調査では、移動の自由をめぐる差を自己責任と考える人も多くいました。しかし、障害、階級・階層、性別、居住地域、国籍、心身の特徴などによって移動可能性に一定の傾向が存在するなら、それを単なる個人の選択として扱うことはできません。著者は、個人の努力では解決できない構造的な移動格差が存在すると考えます。
本書はこの問題を4章構成で検討します。
- 第1章
「移動とは何か」を、モビリティーズ・スタディーズなどの研究を用いて考える。移動の意味、重要性、生活への影響、移動格差という概念を整理する。 - 第2章
約3,000人を対象とした独自調査から、日本社会における移動格差を分析する。日常の移動、国内外旅行、移住、移動の自由、コロナ禍や物価高の影響、他人の移動への羨望などを扱う。調査では、半数弱の人が自分を「自由に移動できない人間」だと感じ、約5人に1人が自分の移動の自由さに満足していないという結果も示されています。 - 第3章
コロナ禍と移動、移動と成功、移動の権利と自由、移動は誰のものなのかなど、移動をめぐる重要な問いを検討する。 - 第4章
今後の移動をめぐる論点と、移動格差を減らすための視点や具体的な方策を提示する。
全体として、この冒頭部分は、
「あなたは自由に移動できるか」という一見単純な問いを入口に、移動を個人の自由や交通手段の問題から、社会階級・格差・権利・社会構造の問題へと捉え直す
ための導入になっています。
そして本書の目的は、「移動できる人」と「移動できない人」の対立を煽ることではありません。異なる立場や条件を理解し、移動をめぐる格差を身近な社会問題として捉え、より公正に移動できる社会とはどのようなものかを多くの人と考えることが、本書全体の目的として提示されています。
この本の始まりと終わりをつなげて読むと、中心にある問いはかなり明確です。
「人は本当に、自分の意思で自由に移動できているのか。そして、移動する自由だけでなく、移動しない自由も保障されているのか」。
本書は、移動を単なる交通や旅行の問題ではなく、階級・所得・地域・身体条件・家族関係・社会制度などによって左右される社会的な問題として捉え直そうとしています。
冒頭ではまず、私たちの日常そのものが移動によって成立していることが示されます。通勤・通学、買い物、通院、旅行、転居など、現代社会では移動できることが当たり前の前提になっています。交通技術の発達によって以前より遠くへ速く移動できるようになった一方で、実際には誰もが同じように移動できるわけではありません。
災害時にはその違いが特に顕著になります。ハリケーン・カトリーナでは、自動車や通信手段、人間関係などの資源を持つ人ほど避難しやすかった一方、それらを持たない貧困層や高齢者などが取り残されました。能登半島地震でも、二次避難や被災地域からの移住が合理的に見えても、障害や生活環境などの事情から容易に移動できない人がいました。
平常時にも同じ問題があります。地方では自動車が事実上の生活必需品となる地域がありますが、自動車価格の上昇によって、安全性能の高い新しい車を利用できる人と、古い車を使わざるを得ない人との差が生まれます。高齢者の免許返納も、安全だけを考えれば返納を促したくなる一方、車を失えば買い物や趣味、社会参加そのものが困難になる地域があります。
ここから著者は、**「移動の機会や可能性は平等ではない」**と考えます。
この差を本書では 「移動格差(モビリティ・ギャップ)」 と呼びます。移動をめぐる機会や結果の不平等、それによって生じる社会的排除や階層化までを含んだ概念です。
重要なのは、これを単純な「本人の選択」や「自己責任」の問題として処理しないことです。階級・所得、性別、居住地域、国籍、障害などによって移動可能性に一定の傾向が生じるのであれば、そこには個人では解決できない構造的要因があります。
また現代社会では、単に「移動できるかどうか」だけでなく、移動できることそのものが社会的な成功と結びついていることも問題になります。
仕事や教育などの機会を求めて場所を変えられる人、旅行や移住を繰り返せる人は、多くの選択肢を得ることができます。一方、故郷や特定地域から動けない人は、そうした機会を得にくくなる場合があります。
その結果、
移動できる人=活動的・成功している人
移動しない人=停滞している人
という価値判断まで生まれかねません。
著者自身も、長野県の比較的移動性の低い地域で育ち、地域へ移住してきた人々との出会いから移動に関心を持つようになります。さらに制度的支援を利用して海外へ行った経験から、自分自身の移動も個人の意志だけで成立したものではなく、人とのつながりや制度によって可能になったものだったと振り返っています。
そして本書の終盤に紹介される二つの語りが、ここまでの議論を具体的な人生の問題へと引き戻します。
一つ目は、親の地方移住によって山間部で育った若者の経験です。
親にとって地方移住は、自由な生き方を選択するための移動でした。しかし子どもにとっては、学校から自宅まで長時間歩かなければならず、図書館や水族館などにも簡単には行けない環境でした。親が仕事を辞めたことで経済的にも苦しくなり、教育や経験の機会にも制約が生まれました。
ここには、
ある人の「移動する自由」が、別の人の「移動できなさ」を生み出す
という矛盾があります。
だからといって、「親は移住すべきではなかった」と単純に結論づけることもできません。親にも移動する権利があり、移住には家族への配慮という理由もありました。
移動には一義的な善悪を付けられない、という本書の重要な姿勢がここに表れています。
もう一つは、人口がほとんど残っていない農村集落に住む60代男性の語りです。
その男性は、自分の住む集落がいずれ消滅することも、自分自身が年齢とともにそこで暮らせなくなることも理解しています。それでも、
「俺はここが好きなんだ」
と語ります。
人口減少社会では、「そんな不便な地域から撤退して都市へ移ればいい」という議論が出てきます。コンパクトシティの議論でも、便利な中心部へ移住することが合理的だと考えられがちです。
しかし著者は、ここに別の権利を見いだします。
移動する自由と同じように、好きな場所にとどまる自由も重要なのではないか。
山奥に住み続けることを都市側から「非合理」と評価してしまうのも適切ではありません。本人にとっては、その土地で暮らすこと自体に意味があります。
つまり、
人には人それぞれの合理性がある。
本書の最後では、この二つの語りを通して、移動を「多ければ多いほどよい」「移動できる人ほど優れている」という単純な価値観から切り離そうとしています。
移動は、
- 個人の意思だけで決まらない
- 経済力に左右される
- 社会制度に左右される
- 居住地域に左右される
- 家族の決定によって左右される
- 他人の移動によっても左右される
という、社会的・政治的・経済的な現象です。
したがって本書が目指しているのは、「もっとみんな移動できる社会」だけではありません。
むしろ、
移動したい人が移動でき、移動したくない人が無理に移動させられず、それぞれの選択によって不当に機会を奪われない社会
をどう考えるか、という問題です。
本書全体を冒頭と結末から圧縮すると、次のようにまとめられます。
現代社会では、移動できることが自由・機会・成功と強く結びついている。しかし、移動する能力や機会は人々に平等に与えられているわけではない。経済力、地域、身体、家族、制度などによって「移動できる人」と「移動できない人」が生まれ、それがさらに社会的な格差へとつながっている。同時に、移動しないことにも固有の価値があり、移動しない人を非合理・停滞とみなしてはならない。移動する自由と、とどまる自由の双方を尊重しながら、移動をめぐる格差や不平等を社会の問題として考える必要がある。
今回読んだ冒頭+終章だけでも、本書の問題意識と著者が最終的に伝えたい立場はかなり明確に把握できています。全文を音読しなくても、ここを土台に各章で気になる論点だけ拾っていく読み方は十分成立しそうです。