2026-10-07
『体はゆく――「できる」を科学する〈テクノロジー×身体〉』は、「できなかったことが、できるようになる」とき、体では何が起きているのかを、テクノロジーとの関係から考える本である。
中心にあるのは、体は意識が考えているほど固定的でも、完全にコントロール可能でもないという見方だ。
プロローグ:「できるようになる」の不思議
著者はまず、VRを使ったけん玉練習を例に出す。バーチャル空間では玉の動きを遅くし、短時間練習するだけで、現実のけん玉でも技ができるようになる人が多い。
ここで重要なのは、単に「けん玉をしている気分」を味わうのではなく、
バーチャルな経験が、現実の身体能力そのものを変えてしまう
ということである。
同様に、手足を失った人などが感じる幻肢痛でも、VR上で「両手が動いている」映像を見ることによって、生身の体の痛みが軽減される場合がある。
本人はそれがバーチャルだと理解しているにもかかわらず、体はその経験を「本気」にしてしまう。
著者は、こうした性質を体の**「ユルさ」**と呼ぶ。
- 体はリアル/バーチャルを意識ほど厳密に区別しない
- 意識による完全な支配から外れている
- だからこそ、外部から介入する余地がある
- そのユルさが、技能獲得やリハビリなどの可能性を開く
つまり、体の頼りなさは欠点であるだけでなく、変化できるための条件でもある。
「技能獲得のパラドクス」
著者は、「できるようになる」ことそのものに矛盾があると指摘する。
新しい技能を身につけるには、今までしたことのない動きをしなければならない。しかし、やったことがない以上、その動きがどんなものかを意識は正確には知らない。
もし体が完全に意識の命令どおりにしか動かなければ、
- 新しい動きをするには正しい命令が必要
- 正しい命令を出すには、その動きを知っている必要がある
- しかし未経験なので正しくイメージできない
- したがって新しい動きは永遠にできない
という袋小路に陥る。
ところが現実には、私たちは歩く、話す、書く、楽器を弾くなど、多くのことを後からできるようになる。
それが可能なのは、体が意識の支配から少し外れているからである。
技能を獲得するときには、
まず体が「できてしまい」、そのあとから意識が「ああ、こういうことか」と理解する
という順序が起こる。
「できるようになる」とは、言い換えれば意識が体に追い越される経験である。
意識的な練習が無意味なのではない。反復や試行錯誤によって可能性を探り続けた結果、ある瞬間に体が意識の予想を越えた解を見つける。
そして、意識が直接行けない未知の領域に、テクノロジーなら体とともに入っていける場合がある。本書は、その関係を探究する。
五人の研究者と考える「できる」
本書では五人の研究者との対話を通じて、この問題を考えていく。
- 古屋晋一
ピアニストが「こう動けばよい」という思い込みから抜け出し、新しい身体の使い方を発見するためのテクノロジー。 - 柏野牧夫
トップアスリートの動きは毎回同じではなく、むしろ揺らいでいる。体自身に解を探させることで環境に適応する身体について考える。 - 小池英樹
動きをその場で可視化し、試合や練習をしながら学ぶ「リアルタイム・コーチング」を追究する。 - 牛場潤一
BMIなどを使い、脳卒中患者が麻痺した手を動かすための新しい神経経路を獲得する過程を支援する。 - 暦本純一
声やインターフェースを通して、「自分」と「他者・機械」との境界が曖昧になる可能性を考える。
著者が共通して見出すのは、体を単純に機械のように支配しようとする研究ではなく、体の複雑さや予測不能性を尊重しながら、その可能性を引き出そうとする姿勢である。
「できる=優れている」から離れる
著者はもともと、障害や病気をもつ人々を研究し、「できないこと」が生み出す可能性に注目していた。
「できる/できない」という言葉は、
- できる=優れている
- できない=劣っている
という能力主義と結びつきやすい。
しかし研究を通じて、著者は「できるようになる」という経験にも、同じような豊かさがあることに気づく。
なぜなら、「できるようになる」とは、意志の力で体を完全に支配することではなく、
思い通りにならない体が、思いもよらない可能性を見つけること
だからである。
エピローグ:能力主義から「できる」を取り戻す
五人の研究者との対話を終えて、著者はあらためて**「できるようになる」という出来事そのものの面白さ**を強調する。
現代社会では、「できる」はしばしば他人との比較に置き換えられる。
「以前の自分にはできなかったことができるようになる」ではなく、
「他人よりできるか」
が問題になってしまう。
すると、本来の「できるようになる」という経験がもつ、驚き、不気味さ、発見、身体の変化そのものが見えなくなってしまう。
本書の目的は、結果的には、
能力主義に奪われた「できる」を取り戻すこと
だったのではないか、と著者は振り返る。
「できるようになる人」は、小さな科学者であり文学者でもある
新しい技能を獲得する人は、自分の体を観察し、試行錯誤する。
- 練習方法を変える
- 体の変化を観察する
- 何がうまくいったのか考える
- 記録する
- また試す
これは、未知の対象を相手に実験する科学者の営みに近い。
同時に、「できるようになる」ことは自分自身の輪郭を変えることでもある。
何を身につけるのか、何を諦めるのか、どんな体になっていくのか。その過程によって、一人ひとり固有の身体の歴史と物語が生まれる。
その意味で、「できるようになる人」は小さな文学者でもある。
テクノロジーの主権を取り戻す
著者は最後に、現在のテクノロジーとの関係にも目を向ける。
インターネット、遺伝子技術、巨大企業による技術支配などを見ると、私たちはテクノロジーによって作られた環境の中で生きながら、そのあり方を自分では選べないように感じる。
しかし、
「自分は、どんなテクノロジーとともに、何ができるようになりたいのか」
と考えることによって、テクノロジーを再び自分自身の問題として引き寄せることができる。
テクノロジーを使って体がどう変わるかを自ら観察し、試行錯誤することは、単なる利用者ではなく、テクノロジーについて考え、選ぶ主体になることでもある。
全体を一文でまとめると
人間の体は、意識どおりに動かない「ユルい」存在だからこそ、未知の能力を獲得できる。そしてテクノロジーは、意識では到達できないその身体の可能性に介入し、「できるようになる」という冒険を助ける。本書は、その経験を他者との優劣から切り離し、もう一度本人自身の発見として取り戻そうとする試みである。